○そうだ高里鈴代さんを呼ぼう!
鹿屋に米軍が来たら私たち市民の暮しはどうなるのだろうか?鹿屋市の海上自衛隊鹿屋航空基地に沖縄の米軍空中給油機部隊の移転案が降ってわいたその時、高里鈴代さんをお呼びして、米軍基地の街・沖縄の実情を伺ってみよう!ということになりました。講演にさきがけての交流会や昼食、鹿屋市に渡るフェリー、車中で高里鈴代さんに密着インタビューさせていただきました。始終にこやかで落ち着きのある語りで初対面の女たちに安心感を与えて下さるのは、長年の相談員というお仕事柄なのだろうか・・とても大事なことだと思いました。
○高一で洗礼を受けキリスト教関係の短大&留学で学ぶ
高里鈴代さんは1940年台湾生まれ。日本キリスト教団でクリスチャンの母と農業試験場の所長をつとめる父を両親にもち、ガールスカウト等の活動をして育ったが、思うところあって高校一年生の12月に洗礼を受けた。その後(1961年)、沖縄キリスト教短期大学に入学し卒業後、フィリッピンのハリス・メモリアル大学のキリスト教学科に留学した。留学中にさまざまな体験をした中で貴重だったのは、フィリッピン人がどんなに経済的に貧しくても分かち合い、また日本人である自分でも関係なく受け入れ食卓を囲むなど人を迎え入れるという精神を学べたことだったと振り返る。留学中の若い体験が、その後の高里さんの活動に生かされたのだと、彼女の滲み出す暖かさからそう感じることができる。
○結婚、そして子育て
卒業後1963年、沖縄で通訳のアルバイト、翌年には夫になる人が哲学を学んでいた関西大学の近くの短大に通い、1965年に結婚。その後、沖縄の幼稚園やキリスト教団主事として働き、夫の母親の病院介護のために大阪へ。その後1970年11月には、東京へと居を移し妊娠8ヶ月まで、早稲田大学の学生寮で18人分の朝夕食をつくる寮母としてフルタイムで働いた。経験はなかったものの限られた予算でボリュームのある料理をつくろうと知恵を絞って今、大流行りの健康食である豆腐バーグは自分が編み出したメニューだとちょっと誇らしげに料理法まで語る高里さんに親しみを覚えた。
○ライフワークにつながった衝撃的な出会い
高里さんに次の転機がおとずれたのは、国連の初めてのメキシコ女性会議のあった1975年35才の時のこと。沖縄の売春問題に関心が深くいろいろな集会に参加していたった高里さんは、YWCAで開催されたメキシコ女性会議のプレイベントの分科会でのパネラーとして参加!たまたま横に座った女性の発言に触発された!その女性が、わが国初の婦人相談員の兼松左知子氏だった。今も婦人相談員として新宿歌舞伎町に関わること50年の大ベテランであった。IT化まで手伝って性産業の搾取のはなはだしい時代、初交年齢は低下、結婚は晩婚化、そんな中で若い世代の少女たちは何の指針も与えられないまま、性のアイデンティティーを求め傷ついているという。21世紀の今、その親や家族の世代のケアまで視野に入れた相談活動を続けられている兼松氏との出会いは、当時女性問題に取り組む高里さんには衝撃的だった。
○35才で子育てしながら三たび夫婦で学生
兼松左知子氏のような仕事をしたい!と思った高里さんは、まず手始めに何をすればいいのか!積極的にたずねた。そしてアドバイス通り、高里さんは翌1976年にはかっそく、東京都立社会事業学校(受験料100円、入学金100円、授業料500円、一年間のみで税金で賄われる学校だった)の生徒になっていた。夫も神学を学ぶことになり、夫婦2人とも再び学生となった。子どもたちは幼稚園と保育園に預けて必死で学んだ。
○ついに婦人相談センター初の電話相談員に
更に翌1977年に卒業し、売春禁止法で義務設置となった婦人相談センターの初の電話相談員になることができた。売春の悩みに限らず、女性の悩み110番のように夫の暴力、嫁姑問題、子どもの問題、女性の体や健康について、何でも相談に応じた。電話相談員になった年、アジア女性会議に参加した足で、15年ぶりにフィリッピンを訪れ、自分の学んだ街に日本人の売春ツアーが来ている、その変貌ぶりにショックを受けた。夫の卒業で沖縄に戻った高里さんは、「‘80年沖縄の女の会」を作った。沖縄でも婦人相談の仕事につき、国際婦人年、ナイロビ女性会議の1985年に
は、「うない(女きょうだい)フェスティバル」を開催。開局25周年でもあった、ラジオ沖縄の電波を12時間を女たちが預かっての、コンサート、リレートーク、映画など、盛り沢山の企画が成功し、あらゆる分野の女たちの絆は広がり深まった。
○沖縄の女たちとの活動の延長で議員に
1988年、うないフェスティバル実行委員会座長をずっと務めた高里さんに、那覇市議選の補欠選挙の候補者として白羽の矢が立った。その時は、深刻な婦人相談の場が手薄になってはと立候補をあきらめたが、翌年また市議選への立候補を推薦され、婦人相談に駆け込んでくる女性の悩みが少しでも軽減でき、駆け込んでくる女性の数を減少させるために政策決定の場に行き、婦人相談での経験を活かし、女性施策に直接声をあげる決意をして立候補。組織も何もない素人選挙を戦い49歳で初当選し那覇市議になった。市長と立場を同じくしているから謂わば無所属の与党議員。性暴力をはじめとした女性問題、戦争、基地問題にかかわりながら4期市議を務め、2004年市長選挙に挑戦し残念ながら落選。1955年の「強姦救済センター・沖縄レイコ」の設立メンバーで、「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」の共同代表でもある。
○目的を持ち自分らしく生きる姿勢
お話しを伺っていく中で、いつまでも目的をもって行動する人は若い!と思った。それに高里さんの自分らしく生きる姿勢と行動力に圧倒された。中でも厳しい反基地や反戦運動を柔軟にこなしていかれるのは、戦争や軍隊がもたらす周辺住民への被害、とりわけ性被害を婦人相談員としての数知れない多くの女たちから相談され、また声なき声の解決のため尽力してきた体験に裏打ちされてのことだと確認できた。鹿屋の基地化がすすんだら鹿児島は一体どうなるの?という問いに、基地化による真の経済効果なんてないこと、目先の利害で街の将来や弱い立場である子どもや女性の人権が壊され、日常の安心・安全な暮らしが失われてしまうということを分かりやすく語って下さった。以下、高里鈴代さんの講演内容を感想を交え簡潔に報告させていただきます。
○講演の概要(軍隊のもたらす女性への人権侵害など)
基地があることで生み出す問題〜日常の爆音、永年の環境や人に対する影響、突発的な事故や事件・・放火、タクシー強盗、交通事故、万引きなどの多発していること(>_<)
この60年以上、データになっていない、九ヵ月の赤ちゃん〜老婆(表現がよくありませんが)まで、場所も年令も選ばない、凄まじいレイプがあったそう。そのことを調査してきた高里鈴代さんの話しは、米軍が来たらどうなるのか?を伝えるのに余りあるものがあった(@_@;)被害者の女性が恥ずかしさ、セカンドレイプなどを恐れ泣き寝入って表沙汰になっていないだけだということ(*_*)
今は徴兵制→志願兵になっていて、米の貧しい層の若者が海兵隊になる。役に立ついい兵士になるために、元海兵隊のアレンネルソンさんが、告発している通り、30の殺人法をマスターする。そんな彼らは貧しくて売春宿に行くお金もないので、基地内でPXの安い酒を飲み、基地外に出て行くのだそうです(>_<)
鹿屋の基地化については、経済効果もないばかりか、女性や子どもの人権がズタズタにされ、安心・安全が脅かされる日常になるのは必至! もっともっと、私たちはリアリィティのある分かりやすい言葉で多くの女たちに、日常的に戦争、軍隊や基地が生み出すこのような実態を伝えていかなくては、平和は創りだせないという現実を改めて感じ、伝え行動することの大切さを胸に刻みました。
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